昭和五十四年六月十六日 朝の御理解                                                                                                        御理解 第二十二節                                「天地金乃神と言へば天地一目に覧ておるぞ神は平等におかげ   を授けるが受け物が悪ければおかげがもるぞ神の徳を十分に   受けようと思えばままよという心を出さねばおかげは受けら   れぬままよとは死んでもままよのことぞ」                                                                                                   「『天地金乃神と言へば天地一目に覧ておるぞ』。天地の中のどこから願っても、おかげが受けられる」と言うことですね。
 昨日は、南米のマットグロスソから手紙がきました。その前日にはビリグイからお礼の手紙が来た。もう長々と大変な「それこそ、奇跡の連続と言うおかげを受けとります。それこそ、白人、黒人、現地人、日本人と言うふうにね。」 それが昨日、マットグロスソの先生が書いとります中に「親先生という方に一遍お目にかかりたい。それこそ仲々のことですけれども。」。ですから、黒人の人にでも、白人の人にでもね、「親先生親神様」と言うことを日本語で教える、ね。
 日本人が日本語で言うのは、あたり前だけれどもね、外国人に簡単にですね、「親先生 親神様と言うて願え」と。写真が向こうにちゃんと飾ってあるそうですけれども、その写真に向かって『親先生 親神様』  「そう言うことがどう言うことかわからんのだけれども、それを唱え唱えしておかげ頂き、わからん時には、おかげの泉を一節でも読んで、あちらの言葉は十分にわかる方ですからねマットグロスソの方は。ですから、それをおかげの泉でおかげを受けておる。」とこう言う。
 昨日は、富久信会でございましたから、商売人の方が殆どでしたが、それぞれにおかげを受けておられる。またね「合楽理念をもってする商売とは、どういういき方にならせて頂いたらよいか。」と言うことを焦点に、十二時過ぎまでも研修させていただきました。
そして、私は思わせて頂いたんですけど、今日の御理解に、『受けものが悪ければおかげがもるぞ』と、こうおっしゃっとる。結局、受けもの。だからまず「素直にならなければいけない。」と言うこと。
 親先生という方が、どういう方かわからんけれども、まあいうならブラジルの人達が、また黒人、白人の方達が、わからんなりにもそれこそ、まあ私共が方言の英語をしゃべる様にです、かたことの「親先生 親神様」を唱えておられる。 その情景を思うただけでも有難うなります。そう唱えればおかげになると教えられて唱えるわけです。ね。
 だから、その受けものはね、「純粋 素直」と言うことがいるということ。ね。 もうそれこそ、「何軒もの病院に行っても助からんというのが、助かった。」と言うお礼のお届けの中にございます。
 そういう、おかげの受けものはね、合楽の信心がわかっておられるとも思われませんし、また「金光様の信心がどうだ。」と、くわしくわかっとるはずもありません。取次の先生その人が、金光教の事を本当、わかってないのですから。只、合楽から出版されとるものを読んで、只、「金光教の信心 合楽の信心 親先生という方は」と言う程度にわかっているだけですからね。
 けども、「親先生助けて下さい。」と言えば、もう助かるんだと確信している。人にもそれを伝える。だから、その言葉だけを覚える。
 「ほんなこっちゃあるぢゃろか。」と、例えばそう言うふうに思ったら、もう、おかげは「ほんなこっちゃあるぢゃろか。」になってしまうです。ね。 疑ってかかったら、もうそのまま、言うならば、神様のお言葉であろうが、私の話であろうが、もう嘘です。ね。
 「半信半疑だったら、おかげも半分」と、おっしゃるのですから。
ね。 そういうものを、いろんな角度からそれを、いよいよ確信すると言うことはなかなか、信心の稽古をつんだ上にも積まなきゃ出来んのですけれども、只、「素直な心」と言うこと。「親先生が、ああおっしゃったから」とかね。「親先生」と唱えるところに、もう、そこにおかげが頂けるという働きがですね。
 昨日、岩部先生が「楽を現わす。」と、頂いたんでね。合楽の楽、それを現わす。示現の現ですね。
 合楽の信心は、結局「合楽理念による楽を現わす。」と言うことです。総ての点にです。心だけぢゃありません。金銭の上だけぢゃありません。人間関係の事だけぢゃありません。もう総ての点に、言うならば楽と言うおかげね。「楽ということは、言うならば気にしない。」という内容もあるようですね。もう三十数年も前に、三代金光様がおいでの時分に、私と一緒にお参りをしておる北野の写真屋さんが、「金光様の御結界の姿を写真に頂きたい。写させて頂きたい。」と言うので、その事をお願いさせて頂きました。そしたら金光様は『楽です』と、おっしゃった。そして、なら写すからと言うて、姿勢を作られるわけでもなからなければ、ね。きどられるわけでもない。成程、あれなら楽だろうと思います。
 「どうぞ、と。構いませんよ、いつでも、ね。気にかけない、かからない。それが楽です。」。 すべての事に、どういう問題がおこっても、そういう事は問題ぢゃない程しに、心にかからない程の豊かな大きな心を頂けば、絶対、豊かな大きなおかげが約束されるんです。
 もう、あれが気になってたまらん、これが心配でたまらん、そういう心がね、神様を信ずる力が、うまれてくればくるほどなくなっていくんです、ね。
 ですから先ずは、言うならバカほどに、わけはわからんのだけれども、素直に、言うなら「親先生が、ああ言うてだから、と言うような頂き方が、まず大事だ。」と言うことがわかります。
 昨日、福岡の嘉朗さんが発表しておりました。「此頃から、神経痛ぢゃないやろか、と言うごと腕が痛む。どうにも、やっぱ痛むものですから、ふと自分に、あヽほんに今朝の、朝の御理解を頂くと一切が修行とわからなければ、一切が神愛はわからない。」という御理解の日に参ってきておった、ね。
 「一切が神愛」という事を、理屈を聞きゃわかるわけですよ。
「はあ、神愛」と、わかっただけではいかん、ね。 それを「一切が修行である」と。 修行であるということは、苦しいことだけの事だけではありません。
すべてが修行なんです。映画を見るでも修行なんです。ね。 美味しいものを食べておっても、修行と思うて頂くから、食べすぎるような事もなからなければ、見すぎることも、しすぎる事もないことになるのです。  「修行として頂く、と言うこと。その事を思い出させて頂いて、はあこれも神愛だ、と思うた。」と、こう言うのです。 「神愛ですね、神愛ですね、と言うて、言葉に出して、さすらせて頂いたら、フシギに痛みがとれた。」という発表をしております。ね。
 所謂、マットグロスソの外人の、ご信者さんがですよ、わけはわからんけれども、「親先生、親神様と言へばおかげになる。」と言って、わからんけれども、難儀な時に親先生、親神様を繰り返し、繰り返し唱える事によって、おかげを頂くという理がわかりますですね。 「それを、本当に神愛とわかって、実感する事は出来ないけれども、言葉に出して現す。」と言うことがですね。
 それを、くり返しくり返し唱えておると、本当にそれが神愛という実感も共にわいてくるわけです。 だから、脇から見とったら、バカのようにあるだろうと思うですね。その様子を、もし見てるとしたならば。
 「神愛です」と、だからお互いの、いろんな問題が難儀をそこにかんずる時にです、ね。 それを勿論、修行として受けることも、と同時にです、「これは神愛です 神愛です。」と、なでるような気持ちでおかげを頂いたら、それこそ、なでられるかのような、おかげがそこに表れておるです。
 昨日、皆さんに聞いて頂いたですね。 「あの、夫婦別れをするしかないですね。♪むすんでひらいてその手を上に・・・、と言うその方から昨日、あさ電話がかかって参りました。もう、とにかく何かうれしゅうてこたえん。」と言う声でした。
 「今おかげで、主人を勤めに出られる。送り出させて頂いてお電話させて頂いておりまする」と言うのです。 「先生にあの事を頂いて、もう本当にそうだ。自分であヽしょう、こうしょうと言う思いをすてた。むすんでひらいた・・を捨ててしもうて、もう、とにかく神様のおかげを頂くより他に手はない、と、神様の前に無条件降伏の気持ちで帰らせて頂いた。」と言うのです。
「そしたら、今までかってない、初めて主人が素面で帰って参りました。」と言うのです。福岡の飲み屋、料亭あたりからつけを、毎そして、「また、うれしい事には、お母さん、あづき相場のお届けがあっとったそうですがね。も、半分な損するけれどもスッキリ売ってしもうて、これでスッキリした。と言うて帰って来られた。」と言うのです。
 もう、ね、間髪を入れないです。本当のものが心に開けて来たときです。「もう、神様、あなたにおすがりするより他にございません。」と、迷いのない心の状態が生まれた時に、もう、打てばひびくような、おかげが受けられておるのです。 「朝は、もう、いつもより早く起きて畑に出て、ね、こげな清々しい気持ちはない、と言うて只今、出勤のおかげを頂いて、とりあえず電話でお礼を申ししあげる。」と言うことでございました。
 だからね、そういう例えば,心の中におかげを頂いたなら、その足でも、お礼に出てくるような気持ちがいるようですね。
「お礼に出てくる、と言うことは、おかげを確かなものにすることですから。神様はそこ辺のところが、ぬけめがないな。」と、思ったのですけれども。その方がお導をしておられる長崎の方で、その方が「是非、もう一遍、合楽にお参りしたいから、是非連れて参ってくれ。」と言う、電話がかかってきた。「どうでも、やっぱ参って来にゃ出来なくて。」。昨日は、もう六時半頃に着くと言われるから、私は、もうあちらに退ってますから、若先生がお相手したと言うことで、ございますけれども、ま、お礼に出て来られる所までおかげを頂いた。ね。
 神様の催しに催して下さる働きが、そこんところまでね。迎え船を出して下さるような様におかげを下さっとるでしょうが。だからこちらがその気でおらんと、神様が手をさしのべて下さっておっても、気がつかんです。
それこそ、受け物の状態が、ね。「もう、神様のおかげを頂くより他に手がんない。」と、言ったよな心の状態の時ですから、おかげが続くわけです、ね。
 昨日、文男先生ガ最後に発表しておりましたから、もう本当に感心しました。と、言うのは「も、本当につらにくいごたる表現です          よね。」と、言うのはね。
 自分が感覚的に、あんまりすぐれてないものだから、仕入れをする時に柄の悪いとを、いつも沢山、「こげなもんば買うてきて。」と、ま、言うならば、言われるようなものを、仕入れてくるわけです。そすと、やっぱ自信をなくしてしまうわけです。だから、お客さんにも、「これよかですよ。とは、すすめられない。」と言うわけです、ね。
 「自分が柄が悪いと思うとを、これはよかですよ。ち、それこそ心と口とは反対の事を、なかなか言へるものぢゃない。ところが、最近の傾向です。」と言うのです。最近、例えば「たくさん仕入れてきたその中から、どんどん売れた。」と言うても、ストックが残っていきゃ売れたにならんぢゃないか、儲けが儲けにならんぢゃないか。
ところが、最近、「私は、この何ケ月か前に、病気のおかげを頂いてから、この方というものは、昔のストックしてあった、もう柄が悪いからいけないと言うのを、こうやって、あらためて出してみたら、素晴らしく見えるようになった。」と言うのです。これは私が「先生、もうあげな修行生は早う出しなさらにゃいかんですよ。」          と言われても、私の心にはそれが*こえらし見えるからフシギなんです。ね。
 それが、だから彼を、あの人を生かす事になるのです。文男先生が言っておるのは、「今まで、こんな柄を、と思っとったのが、とにかく、よく見えてきた。だから自信をもってお客さんにも、すすめることが出来る。それが、そういう売れ残っておった、と言うかストックと言っておったようなのを、だけが、この頃よく売れてる程しの傾向があります。だから、コロッと、いくら安くしてあげても、例へば、四十万もするようなのが十五万で売っても、十分こちらには、前に仕入れとるとですから、お客さんも喜んで下さる。こちらも、仕入れんなりストックしてるとが、どんどん売れていく。
それが、ここ数カ月続いておる。」と言う発表をしました。
 「合楽理念を以って商売をする。と言うことは、こいうところの体得が出来なければいけない。」と言う事を、私はあらためて昨日感じさせて頂いた。
 これは、私が、ね、好かんというものを、いよいよ、好きなふりをしてからでも、大事にしていきよると、フシギにだんだん好きになる。そういう人が、必ずおかげを頂くようになる、と言う話をするように、これは人だけぢゃないことがわかります。商売人が商品にたいしてもです、こげな悪か柄、とこう思うておって、人にも確信をもってすすめられるのがです、ね。 「やっぱり、みすみすいかん、と言うのを、すすめることも出来ないけれども、それが自分が好きになってくる、その反物が。そしたら、そいう働きがおこっておる。」と、こう言うのです。
 『受けものが悪ければ おかげがもるぞ』と、こう言うのです。
「あれは好かん、これはいかん」と、言うような心ではいかん。人が好かん、と言うのでも、好きになれるような心の状態が、成る程「商売は合楽理念を以ってするほかない。」と、言うことになるぢゃないですかね。
 昨日、熊本の松村さんが発表してました。先月からご理解の中に頂きました、あの食用蛙の、ね。あのお話ですから、「あんたが頂いてる通りの事を、実感をもって、あんたが皆さんに聞いてもらいなさい。」と言って申しましたから、話しておりましたが、また一段とくわしう話しておりました。その食用蛙が人間の言葉を使って「どうぞ助けて下さい、どうぞ助けてください。」と、言うとる、ね。「その代わりに山椒魚をさしあげます。」と、こう言う。そこで、あそこの主人になる人が、「山椒魚ちゃどげなっちゃろか。」と、言うて辞引をひいた。
 山椒、と言うことだろうと思うのですけれども、それに書いてあったのがですね、明確、と書いてあったそうですね。
だから、親先生が合楽理念は、言うならば「簡単です、明瞭です。
そして、おかげが確かです。」と言うふうに、ま、合楽のキャッチフレーズのように、申しておりますよね。合楽理念は簡単です、ね、しかも明瞭です。そして、おかげが確かです。その、明瞭の明と、ね、確かです。と言う、その明確ということがです、ね、どういうことかと言うと、「お徳を受ける。」と、言うことになると、ね。
言うならば、「怖いもの、いやなもの、こげな好かんものはない。」と、いったようなものを、生かす事によってです。言うならば、「山椒の徳がうけられる。明確な、言うなら、岩部先生が頂いた、と言う、『楽を現す。』と言うおかげにつながってくる。」と言うのです。ね。
 皆さん、合楽にご縁を頂かれたのですから、その事だけではないすべての事がです、ね、楽にならなければいけません、ね。
 経済問題でも一つ楽にならなければいけません。必要なだけは必要に、神様はちゃんと与えて下さる、家庭の中にでも。それこそ、「ほんに、あちらは極楽ぢゃろうか。」と、言うような、そういう楽がうまれてくる、おかげを現していかなきゃいけんません、ね。
それには、何と言っても、ね、受けものが大切です。素直心の一つにて、おかげが受けられておる事実をね、言うなら、マットグロスソの外人の信者さん方、おかげを受けておる様子の中から聞いて頂いた。
 「バカほど素直にそれを唱える。」と言うだけで、おかげになる受けものが出来た。だから、そういうおかげを受けると言うことだけにとどまらず、そのおかげが広うなっていく、大きくなっていくことのために、いよいよ大きな、豊かな心の状態を頂いていく修行がいるんだ、と言う事になります。
 修行させて頂いとりますと、『一切が神愛』と受けられるようになります。どういう事であっても『神愛』と、受けられる程、素晴らしい、大きな豊かな心はありません。ね。それが、日に日に改まること、言うならば、研かせて頂くことに精進させて頂いてますから、それが、いよいよ美しいものになってまいります。美しく、しかも豊かに大きく、これは限りがないのです。ね。
 おかげを受けるというこは、ね、素直に受ける、と言うだけで、おかげを受けられる。それを、いよいよ大きなもの、豊かなものにしていく事のためにです、大きな豊かな美しいしかも、ね、「受けものを作らせて頂く稽古をするならば、おかげも大きく豊かになってくる。」と、いう事は「火を見るよりも明らかだ。」と、言うことになります。
 「大きなおかげを頂きたい、そして、心は小さい。」もう、ちょっと、こう言われたら、カチツとくる。ちょっと言われたら、もう心が暗くなる、ね。
 だから、暗くなったり、カチッと来たりする心を、とらまえて、こいう心ではおかげにならん、という、本気での修行がくり返されなければならん、と言う事になりますよね。                                    「 どうぞ 」